2011/10/26 (Wed)  

. 東北ハーモニカフェスティバル、そして被災地へ .

東北のハーモニカ愛好者が一堂に会する「東北ハーモニカフェスティバル」は今年で30回という節目。開催が危ぶまれたものの関係者の尽力で、10月9日、原発の災禍に揺れる福島市の公会堂を会場に無事終えることができた。開催できてよかったね、そんな喜びの声があちこちで聞かれた。私たちThe Who-hooはこの日、稲川有徳さんとともにゲストとして招かれていた。
先の震災で仲間が亡くなったり、家が壊れたりといった心に痛手を負った人たちが、それでもハーモニカでつながろうと懸命の努力を積み重ねた。演奏する人も聴きに来る人も思いは一緒だった。元気にがんばっぺ! 演奏することで、私たちも東北の人々と繫がりたかった。そしてこの目で被災地を見ておかねばとも思った。

 10月10日、東北ハーモニカ連盟会長の木村さんの車で相馬市、南相馬市に向かう。福島盆地の山間に点在する田んぼは収穫を終えた稲が掛け干しされて、放射能の線量検査を待っていた。伊達地方の山深い地はあんぽ柿の産地としてつとに知られる。本来なら柿ばせと呼ばれる小屋の軒下に、朱く色づいたあまたの柿が吊された光景を目にできる。が、ことしの小屋はひっそり閑散としている。放射能さえなければ……。柿で生活を支えていた人々の暮らしはどう保証されるのだろう。それよりも人々はいまどこにいるのだろう。人の気配がない。聞けば計画的避難区域に指定されたところもあるという。
 木々の葉が色づき始めた山を縫って一路相馬市へ。霊山のあたりは紅葉狩りの名所という。今年は人が来るだろうか。民家の瓦屋根の棟がブルーシートで覆われている。屋根職人の人も資材も間に合わずの応急処置だ。
 海に近づくと、海水に浸かってドブと見まがうほどに腐り果てた田んぼが広がる。津波に押し流された白い車や漁船があの日のままに時を止めて瓦礫のなかに打ち棄てられている。
 相馬市、松川浦。水産物直売センターの周辺には旅館や民宿が軒を並べ、震災さえなければ海の幸を求める観光客で賑わっていたはずだ。いま埃っぽい海沿いの道に人影はない。ガラス戸は割れ、調度品は流され、日常を壊されたがらんどうの建物が続く。この一帯はあの大津波で水没、行方不明も含め450人を超える住民が亡くなった。町は一変し、人々の声はどこかに消えてしまった。
海沿いのあれはホテルだろうか、レストランだろうか。コンクリート壁はすっかり剥がれ、ぐにゃりと曲がった赤茶けた鉄骨だけが何本もむき出しにされている。建物はかろうじて太い鉄骨の柱だけで支えられ、無惨な姿を潮風に晒している。
 このあと南相馬市にも向かった。田畑に十数艘もの漁船が打ち上げられたままの不可思議な光景。基礎を残して跡形もなく流された家々。橋桁だけを残し流された橋。ボコボコにへこんで積み重ねられた車。テレビや雑誌からは伝わらない津波の凄まじさを実感する。何よりも目に見えない放射能の恐怖が常に脳裏を離れなかった。
 あらためて被災地の人々の心中に思いを馳せた。

       「関東ハーモニカリーグ」寄稿


2011/03/10 (Thu)  

. 萩原朔太郎とハーモニカ .

 北原白秋がドイツ製のハーモニカを吹いたことは前回書きました。その白秋が最も信頼を寄せた詩人のひとりに、高村光太郎とともに日本の口語自由詩の確立者として知られる萩原朔太郎がいます。朔太郎もやはり若き日にハーモニカを吹いたのでした。
 朔太郎は1886年、明治19年に群馬県前橋の医師の家の長男として生まれます。白秋は二つ年上で、大正6年に朔太郎が『月に吠える』を出版する頃には白秋は抒情詩人としてまばゆい存在でした。その4年前の大正2年に白秋が主宰する『失樂(ザムボア)』という雑誌に初めて朔太郎の短歌が掲載されます。これが彼の中央詩誌への初登場でした。朔太郎は白秋と親交を結びます。
 朔太郎は幼少時から将来、医業を継ぐものと期待されて育ちました。両親からの溺愛を一身にうけながら自分の思いとは異なる生き方の強要に深く絶望し、苦悩します。名門中学、名門高校への進学を果たしながらも学業には身が入らず、大学も入退学を繰り返しました。
 汗水たらして働くのが当時の尋常の暮らしぶりながら、朔太郎は職業につくこともせずに自分でデザインした斬新な洋服を着、トルコ帽をかぶって茶店などに日毎出入りする不良青年で、周りの人々から白い目で見られる存在でした。
 両親に屋敷の一隅に書斎を建ててもらい、マンドリンやギターを中心にした音楽クラブを作って音楽と詩作にふけるいわば生活無能者としての日々を送るのでした。朔太郎より二つ年下の室生犀星もよくここを訪れ、詩論をたたかわせたりして交流を深めました。人一倍鋭敏な神経を持つ朔太郎にとっては音楽と詩作だけが心の慰めでした。
 朔太郎は本気で音楽家になることを考えた時期もあって、何度か音楽学校の入学試験にチャレンジしたようです。白秋同様にドイツのハーモニカに親しみ、やがてハーモニカからマンドリンやギターに関心は移ったのでしょう。ところで朔太郎にマンドリンを教えてくれたのは日本に初めてハーモニカを持ち帰った比留間賢八でした。
 比留間は東京音楽学校を小山作之助とともに明治20年に卒業し、その後アメリカ、ドイツへと渡ります。民族楽器への関心があってチターを学ぶのですが、明治24年、母の病状悪化の報に接して急遽帰国することになりました。そのときにチターを二台とハーモニカを数本持ち帰ったのでした。これが日本へやってきた初めてのハーモニカです。
 明治32年には再びドイツへ渡り、二年後に帰国するときには今度は日本に初めてマンドリンを持ち帰りました。大正3年にはマンドリン教授に専念し、朔太郎はじめ、里見 ク、桐朋学園創設者の一人、斎藤秀雄、画家の藤田嗣治そして宮田東峰も門下生でした。
 ハーモニカを愛した二人の詩人は奇しくも昭和17年、戦争のさなか朔太郎は5月、白秋は11月に病に倒れ不帰の客となりました。


2010/12/25 (Sat)  

. 北原白秋とハーモニカ .

 ハーモニカソロで演奏される「城ヶ島の雨」、「砂山」、「この道」、「からたちの花」、「ペチカ」などは北原白秋の詩による名曲であることは皆さんもよくご存知でしょう。
 その白秋が実は、少年時代にハーモニカを吹いたと考えられるのです。
 第一歌集『桐の花』に「病める児はハモニカを吹き夜に入りぬもろこし畑(ばた)の黄なる月の出」という一首があります。
 病める児とは白秋自身。他人の観察ではなく自身の体験をうたった歌でしょう。白秋は幼少の頃、病弱で家人からは壊れものに触るように育てられました。
 幼少年期のことをテーマにした白秋の第二詩集『思ひ出』の巻頭を飾る〈序詩〉はこうはじまります。

<思ひ出は首すぢの赤い蛍の/午後(ひるすぎ)のおぼつかない触覚(てざはり)のやうに、/ふうはりと青みを帯びた/光るとも見えぬ光?>

 そして第3連に次のように書き連ねます。

音色ならば笛の類、
蟾蜍(ひきがえる)の啼く
医師の薬のなつかしい晩、
薄らあかりに吹いてるハーモニカ。

 たそがれのさみしさを想起させる幼き日の記憶とともにハーモニカ体験は彼の脳裏に刻印されます。
 白秋の家は福岡県の水郷、柳川。江戸時代から栄えていた商家で、明治34年の大火で酒倉を消失して家産が傾きはじめるまでは裕福な家庭でした。
 少年の日の白秋が手にしたのはハーモニカがまだ珍しい時期のドイツ製の「マウスハーモニカ」と称されるものだったでしょう。なぜならハーモニカが普及するのは明治38年以降、日露戦争の勝利を機に「カチドキブエ」と称するハーモニカがドイツから大量に輸入されるのを待つほかはなかったですし、国産ハーモニカは明治43年になって小林鶯声社が製作開始、大正3年の第一次世界大戦以降でないと量産化は始まりません。
 ハーモニカが日本にお目見えした時期はちょうど白秋が生まれた明治18年前後。でもそれは観工場や博品館といったデパートの前身のようなところで売られているおもちゃ同然のものでした。白秋が10歳になる頃になってようやく、銀座十字屋楽器店の雑誌広告に何種類かの「マウスハーモニカ」がイラスト入りで紹介されるようになりました。長男坊の白秋に誰かが買い与えたに違いありません。
 電灯はまだ珍しく、石油ランプが主力の時代、暮れなずむ夏の夕べ、耳をすませば、ほら白秋の吹くハーモニカの音色が聞こえてきませんか。



2010/11/07 (Sun)  

. 自費出版文化賞表彰式に臨んで .

過日、拙著『あつぎハーモニカ物語』の入選を機に、「第13回日本自費出版文化賞」表彰式に臨み、受賞者のスピーチを聞いた。
 今年の大賞は対馬の歴史に敢然と挑み、全三巻、千ページを超す大著にまとめた『対馬国志』という本だ。満九十歳になるという著者の永留久恵さんは兵役で海軍に従軍、真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦にも立ち会った経験を持ち、その後何度も大陸の地を歩き、歴史研究を始めたきっかけなどを話された。飄々としかもかくしゃくとした語り口は心震わすものだった。国防とは軍事力に頼らず隣国との友好と言い切る永留さんの口元はとりわけきりりと引締る。
 最初、出版社に出版を要請したが売れる見通しがたたないと断られた。既に著名な出版社の著作もある永留さんにしてそうだ。そこで郷土史の研究などを通じて付き合いのある人の力を借りての今回の出版だった。
 自ら紙を漉き、雪深いふるさとの四季をつづり和綴じで製本した新潟の小林さん、人々に疎まれながらも豚飼育に人生を賭けた人に寄り添う香川の山地さん、遊びは生きる力を育む、もう一度昭和の子どもの遊びをとイラストと解説文で綴る熊本の原賀さん。そのどれもが丁寧な手仕事を感じさせ、本作りへの思いは強く深い。
 自費出版というとその質において負のイメージで語られがちだが、商業出版とは別の価値観、個人の熱い魂に貫かれた文化創造行為であり、民衆の側に立つ歴史の証言でもあるということをあらためて認識する機会を得た。



2010/07/23 (Fri)  

. 電子書籍元年に思うこと .

 書物は本質的に“物”なのだと思う。
 最近、新聞などでしきりに電子書籍の話題がとりあげられて、紙の本に未来がないような印象を撒き散らしている。いまはグーテンベルグの活版印刷術の発明以来の大変革期であることに違いはないが、紙の本へのこだわりがそう易々と消えるはずはないし書物がなくなるはずもない。
 書家の石川九楊氏は、「言葉は本の手触りや質感に根差し、色やにおいを引き連れて立ち上がる。ツルツルの触感しかない端末では、情報は伝わっても、言葉は立ち上がるまい」という。同感だ。
 書物の重さ、大きさ、装丁、活字の大きさ、かたち、組み方、レイアウト、果てはその匂い・・・・・。言葉はまさにそうした“物”の属性に拠っている。書物はひとつの完結した質量ある宇宙なのだと思う。
 
 過日、国立新美術館のグッズ売り場に立ち寄った。たのしい小物や文房具などにまじって、さまざまな本が居心地よくその間に並べられている。
 民芸というテーマでくくられたコーナーには、民芸雑貨に囲まれてバーナード・リーチの『日本絵日記』という文庫本が積まれていた。バーナード・リーチ自筆の手書き文字がタイトルに使われ、彼の描いた素描がその下にあしらわれたシンプルながら人なつこい表紙に思わず手を伸ばしてしまった。
 パラパラとページをめくると、そこにもリーチの風景やら人物やらの素描がいくつもちりばめられている。トランプを切るときのように右から左へ、左から右へとページを繰る。
 実に面白い内容の書物であるという主張を、この本の重量が、活字と素描の均衡の具合が、活字の組まれ方が、そしてその厚さが手触りが全存在をかけて表現し訴えている。

 物として存在する価値のある書物というものは必ずある。書物である必要性の薄い本が多く流通してきたところに電子書籍の参入の余地はあるのかもしれないが、その中身は単なる情報に過ぎない。そうした本が電子化されることにまったく異論はない。情報にとって大切なことはまさにその中身であり、意匠ではない。
 だが意匠を必要とする、書物という器を必要とする言葉たちを(例えばそれは詩や小説といった文学作品だろうがなかろうが)ぼくはこれからも求め、買い、読み続けるだろう。例え電子書籍を便利に使うことがあったとしても。


2010/07/21 (Wed)  

. 三菱一号館美術館 .

 東京の都心、丸の内にレンガ造りの真新しい美術館がことしの春、オープンしました。「三菱一号館美術館」と言います。東京駅舎が取り壊されてさみしかったところへ明治の洋風建築の復活は本当にうれしいニュースと言えます。
 この「三菱一号館」の前身は明治27年に英国人建築家ジョサイア・コンドルによって設計された19世紀後半の英国様式の建物で、昭和43年に老朽化のため解体されたままだったようです。40年の時を経て、当時の設計図をもとに同じ地に復元され美術館として再生したのです。
 
 ざっと歴史をたどれば、土佐藩の海運業で富を得た岩崎家は明治維新後に三菱を興し、この地に土地を取得、銀行、事務所として使用するため三菱一号館を完成させたのでした。丸の内初の洋風建築です。明治の人々にもさすがにモダンな建物に映ったことでしょう。
 当時、既に三菱にはこの一帯に美術館や劇場を作る計画があったそうで、コンドルは「丸の内美術館計画」と銘打った図面を残しているそうです。しかしその計画は日の目を見ずに頓挫し、一世紀ののちにようやく美術館の開館へとこぎつけたわけです。

 三菱の夢が実現したことは私たち絵画ファンにとってはたいへん喜ばしいことです。開館記念の第一弾は印象派のみならず19世紀の近代美術に大きな影響を与えたエドゥアール・マネの作品を集めた「マネとモダン・パリ」展。話題を呼んで連日多くの来場者で賑わっているようです。僕も先日、観に行きました。
 女流画家でもありマネのモデルとしても著名なベルト・モリゾを渾身の筆で画いた「すみれの花束をつけたベルト・モリゾ」がやはり一番すばらしく、いつまでもその絵の前にいたいほどでした。知性と気品にあふれた美しいモリゾがいまそこに息づいているようにさえ思えます。マネの愛情が丁寧な一筆一筆にこめられた大傑作と言ってもいいでしょう。

 絵で心熱くしたあとは美術館裏の庭園で一休み。都心とは思えない車の音も排気ガスも気にならない静かな場所で、白樺などの木々や草々の緑の間にところどころ真っ赤な花が顔をのぞかせる心休まる空間です。わたる風が頬をなぜ、噴水池脇の木陰のベンチの特等席に腰を下ろして木の葉のそよぎを眺めていると時さえ忘れるようです。猛暑をよそに木陰と風のありがたさを肌で実感するひとときでした。
 たとえ美術館に入らずともこの庭園は何度でも来てみたい嬉しいオアシスです。白状すれば、ここに憩うご婦人方にも心奪われました。その上品な着こなしからちょっとした物腰までモリゾに引けを取らぬほど魅力的な方々ばかりに見えました。場所の効用というわけではないのでしょうがさすが東京の真ん中です。
 何年か後には赤レンガの東京駅も復元、歴史を感じさせるこの界隈の魅力がいっそう増しそうで本当に楽しみです。


2010/06/18 (Fri)  

. 中川一政の言葉 .

音楽にかかわるとても大切なことを、ときに音楽畑以外のひとから教わることはよくあります。中川一政という画家もその一人です。彼にはたくさんのエッセイがあり『中川一政全文集』として全10巻にまとめられてもいます。どの言葉も味わい深いのですが、たとえばこんな含みの多いなにげない文章にぶつかります。
「彼らは肉眼をたよって見えるものの勉強をしている。見えないものの勉強はしていない」と。
 学校で技術を学び、表面の色や形だけにとらわれて対象を心眼で捉えないことを批判します。またこんなふうにも言います。
「他人の技術は役に立たない。技術は自分の目から生まれるのだ。しかしこれが自分の技術だと思ったら、それは死んでいる技術だ」そしてさらに「上手でも死んでいる画がある。下手でも生きている画がある」、「志はもと士の心ではなく、之と心から出来た文字で、即ち心が之(行)くという意義で、心が方向を持つという意義である。(中略)志というものが言葉になれば詩になり、耳に行けば音楽になり、目に行けば画になる」と。
 心が方向を持つとは、心が動く、すなわち感動ということです。文学者、音楽家、画家となれば志の分業ではあるが、画かきは画だけかいていればよいかといえばそうではなく、むしろ画かきになってしまってはいけない、画かきが画をかくのではなく、人間が画をかくのでなければいけないと言います。画かきは人間の全部でなくてはならないのです。音楽家もまた然りでしょう。
 かのセザンヌも「感動を原理としない芸術は、芸術ではない!」と叫びます。技術も大事には違いないが、対象を深く見つめ、ひとりの人間として感動する心こそ大切ということなのでしょう。
 何事をなすにも自得の精神が肝要、とはやはり中川一政の言葉ですが、もがきながら自らの表現を模索し続けた人たちの言葉はずしりと重く心に響きます。肝に銘じつつ音楽に向き合いたいものです。
 


2010/06/18 (Fri)  

. よい匂いを放つ演奏 .

過日、長谷川潾二郎という明治生まれの画家の回顧展を平塚市美術館で観た。普通なら画題になりにくい鬱蒼とした木々や木の枝が、彼の筆にかかると強く心に迫る。絵から風の音が、草木の放つ匂いが、草いきれがたちのぼる。
「よい画はその周囲をよい匂いで染める。よい画は絶えずよい匂いを発散する。よい匂い、それは人間の魂の匂いだ」(長谷川潾二郎)

 おそらく彼は対象をいつも新しい心で虚心に見つめ、最初の感動をその手触りや震える音を介して受けとめてキャンバスに向かったのだろう。 
 若き日、パリへ修行に行って十年は帰らない心積もりでいた彼が、ある日、芭蕉や蕪村の俳句集を読む。すると日本の風景が、季節の風物が目前のパリとは異なった別世界の美しさで浮かびあがってきたという。いかに自分は日本の風景を知らなかったか。いかに自分はそれを見ようとしなかったか。
 パリの風景はパリ人にまかせればいい、自分は日本の風景を研究する。そう決意して一年ほどで帰国する。故郷が恋しいからではなく、強い好奇心と期待と、野心を持っていたのだ。
 見ようとする眼をもてば見えてくるのだ。じっくりと五感を澄まして対象に臨めば、風景が語りかけてくる。あたらしい意味と価値を帯びて見えてくる。    
 
 音楽のことを考えた。音楽もまた然り。その一瞬一瞬に目を耳を心を澄ませば聞こえてくるはずだ。まずは無垢な心で音の風景に向き合うことこそよき演奏への第一歩ではないか。
 よい匂いを放つ演奏、大いなる目標だ。



2009/09/28 (Mon)  

. 庄野潤三さんを偲んで .

 作家の庄野潤三さんが亡くなった。一度お会いしたいと思っていた方だった。
 きょうは告別式。庄野さんが脳梗塞で倒れられて入院中だった三年前に「ハーモニカマガジン」に書いた原稿を再録し、庄野さんのご冥福をお祈りしようと思う。

 『庄野家訪問』

 多摩丘陵の小高い丘のてっぺんに作家、庄野潤三さんの家がある。四周を一望に見下ろせる天に近い「山の上」だ。庄野さんの作品で描かれる、めじろやつぐみなどもやってくるそう広くもないが緑いっぱいの庭。しっとりと落ち着いた風情の和風の家。庄野さんたち老夫婦の幸せにあふれた暮らしぶりがうかがえる。
 庄野さんの作品にはよくハーモニカを吹く場面が登場する。夜一日を終えて、あとは風呂に入って寝るだけというときに、齢八十を超える庄野さんがハーモニカを吹き、そばで奥さまが時には歌詞を口ずさみながらそれを聴く。「早春賦」であったり「朧月夜」であったり「赤とんぼ」であったりする。もう何度となく繰り返される同じような日常、けれど二度と戻ることのないかけがえのない一刻、一刻。そんな老夫婦の穏やかでふくよかな日常が綴られる。読むと心が温まる。
 伺ったときはあいにくお留守。玄関先に差し上げようとハーモニカと手紙を置いて帰宅した。そしたらすぐに奥さまから手紙がきた。
「丁度、病院から戻りましたら、お玄関の桜の切り株の上に、門灯の光にてらされて美しいものが待っていて下さいました」
 万年筆で書かれた美しい文字、美しいことば。もう感激だった。
 庄野さんは昨年から病に襲われて入院されているという。ハーモニカを吹くことはまだできないが、いつもハーモニカのCDを聴いているという。早く全快されてハーモニカを吹く日々をまた作品にしていただきたいと切に願うばかりだ。


2007/05/02 (Wed)  

. 中也、生誕100年 .

 中也が生前愛用したという厚手の黒いオーバーコートをガラスのケース越しに見つめていると、身の丈五尺何寸かの小柄な中也が山高帽を頭にのせて、ひょっこりといまにもそこに現れ出そうに思われました。いえ、もっと正確に言えば、まっすぐに澄んだ瞳を輝かせて、本物の中也がそこに立っているのを確かに僕はみたような気がします。

〈中原中也は、詩とは何か、詩人とは何かということを、短い生涯のなかで一途に考え続けた人である。詩と生活が一体である、と思えるほどに、全身で詩について考え、詩を作ったと言っていい。〉(佐々木幹郎)

 僕はまたもガラスケース越しに、中也の残した詩の草稿や手紙、日記をみる。そして丹念に一文字一文字を追う。時を経て黄ばんだまぎれもない中也直筆のそれらの書き物からは、中也の震えるような魂の律動が伝わってきます。

 ああ、中也、愛を、詩作を懸命に生き、生きることの意味を深く深くみつめたその鋭いまなざし。あなたの生きざまを知ってしまった者にはあなたの言葉の一つひとつが心に深々と鳴り響くのです。


『生ひ立ちの歌』(第1連のみ引用)
  
  幼年時
私の上に降る雪は
真綿のやうでありました

  少年時
私の上に降る雪は
霙(みぞれ)のようでありました

  十七−十九
私の上に降る雪は
霰(あられ)のやうでありました

  二十−二十二
私の上に降る雪は
雹(ひょう)であるかと思はれた

  二十三
私の上に降る雪は
ひどい吹雪とみえました

  二十四
私の上に降る雪は
いとしめやかになりました・・・・

 
 30年という中也の短い生涯は、いのちの火花を散らすように激しく、濃密な生の時間でもありました。

〈かくて私には歌が残った。
 たった一つ、歌といふがのこった。
     *
 私の歌を聴いてくれ。〉

 この4月29日に生誕100年を迎えた中也の生の軌跡は、いま横浜の神奈川近代文学館で見ることができます。





 

バックナンバー


- Genesis -